『生物と無生物のあいだ』 福岡伸一著

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

何年か前に、hippo family club で『DNAの冒険』という本を作っていたとき、トラカレ(Transnational college of LEX)の学生がワークショップにやってきては、「自分たちのことば」で、『DNA』という壮大なテーマについてひもといていた。

そのときに、私の中に大きく残った『?』は、「『生きてる』って何なんだろう?」ということだった。

(ちなみに、このことばをつぶやく度に、私の頭の中にはTV番組『笑う犬の冒険』の
「〜♪生きてるってなんだろ?生きてるってなぁに?♪〜
 生きてる気持ちがしないんだよ〜 お兄ちゃ〜ん!!」
 という哲学的な歌が思い出されるのである)


さて、生き物を、切って切って切って切って、うーーーーーんと細かくしていくと、小さな小さな物質になる。
その生物を細かくした物質と、そのへんの物を細かくした物質は、一体なにが違うのだろう?


今話題のこの本の中でも、私が知りたかったのは、とにかくソコにつきるのだった。


なぜなら、このテーマは、 「スルメを見てもイカのことはわからない」 と養老先生がおっしゃっているように、語学の対象としてのことばと、生きたことばの間にあるものを、見つけ出すヒントになるのではないかと常々考えているから。


生き物は、ほうっておくと、エントロビー増大の法則で無秩序へと向かう(つまり死)のを、それに逆らって秩序を構築しつづけている。

さて、どうやって?

逆らうのではなく、崩壊する前に先回りして分解し、常に再構築する。
壊れていく流れをも組み込んでしまう、らしい。

生命とは動的平衡にある流れである

と著者は書いている。

行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
というわけだ。

(えっ?違いますか?
ま、いいじゃないですか。
雰囲気で。)


生命はなぜ、壊され続けながらも、もとの平衡を維持することができるのか?
ヒントは、タンパク質のかたちの持つ相補性なのだそうだ。
ジグソーパズルのように、収まるべきところに収まる。
しかしそれは、ガッチリとはまってしまうのではなく、くっついたり離れたりをくりかえす。


私はこの記述を読んだときに、頭の中でふわふわと浮かぶ様々な言語の音を連想した。

ある言語をしばらく集中して聞いていると、頭の中にそのことばの断片が浮かび始める。
それは何の脈絡もなく、音だけが自分のまわりに浮かんでは消えていく感じなのだが、その音が次第に、収まるべきところに収まっていく。

そしていわゆる文章になるのだが、
そのときの収まり方が、文法や構文を考えてつなぎ合わせているのではなく、まさしく音のかたちの持つ相補性とでもいうものでつながっていくのである。

この音のつづきには、これしかはまらない といった感覚とでも言おうか。
口が覚えているとも言えるのかもしれない。

とにかく、私にはやはり音のかたちという表現がピタリとくる。


生きているって何だろう?
生きたことばって何だろう?


生きているということを知るには、部分ではなく、全体のふるまいを見るという視点が必要なのだろう。