第8回 ことばで世界を見つけていく
Ciao! Cynthiaです。
前回のテーマは、 「話せるから通じるの?」 でした。
さて今回からは、ことばで世界を見つけていく ということについてお話していきます。
「ことばで世界を見つけるって一体なに?」
「見つけるっていうのは、目で見るんじゃないの?」
そうだよね。ホントわかりにくい表現です。(苦笑)
じゃあ反対に考えてみようかな。
ことばがわからないとき、私たちは世界をどう見ているのか?
ますますわからない?
例えば、赤ちゃんがアーとかウーという声からもう少しコトバっぽいものを話しはじめた頃、彼らにとって世界はどのように映ってるんだろう。
もちろん周りの人や物、建物や風景、車などは目には入っているんだろうけど、それが何かを知らないときにはどんなふうに認識しているのか考えたことある?
赤ちゃんの頭の中はのぞくことはできないけど、ちょっと面白いことがありました。
うちの子がまだ1才くらいのとき、ある日アンパンマンの絵本を見て初めて「パンパンパン」って言ったのね。
「アンパンマンのこと言ってる!」と思った私は、「そうだね、アンパンマンだね〜」って繰り返して、絵本を読んであげた。
「パンパンパン」は「アンパンマン」とは違うけど、この子はアンパンマンのことがわかってるんだなぁって感動したのを覚えてる。
そしたら、その日から突然、家の中でも外でも、どんな小さなアンパンマンでも見つけて、「パンパンパン!」って言うようになったの。
あるときなんて車の中から外を見て言ってるんだけど、どんなに見回しても私には見えない。
よ〜く探すと、向こうの方のマンションのベランダに干してある子ども布団にアンパンマンの絵がついてた(!)ということもあった。
何であんな遠くの小さなアンパンマンガ見つけられるのか不思議で仕方なかったけど、ハッと気づいたんだ。
この子には、アンパンマンだけがハッキリ見えて、あとのものはボンヤリとした風景なんだって。
大人の私の目には、マンションや植え込みや洗濯物や、周りの店、車などいろんなものが見えているから、布団の小さなアンパンマンは埋もれてしまっていたけど、この子にはそれだけがクッキリ見えてるんだ。
そういえば、私もよく意味のわからないことばの物語CDをかけていると、音は聞こえていてもほとんど素通りしている中で、たまに知っていることばがあるとそこだけクッキリ聞こえることがある。
そういう感じなのかもなってそのとき思った。
そう考えると赤ちゃんって、ぼんやりした風景がことばをゲットする度に、だんだんクッキリ見えるようになっていくんだろうか。
私の去年のイタリアホームステイが、まさにそういう感じだった。
初めて行くイタリアの町、初めて会う人たち。どんな生活をしているのかもわからないし、最初はすべてがボンヤリしていた。
いや、まぁ大人だから、車とかお店とか、教会とかそういうのは見てわかってたけどね。
ホストファミリーに入ってすぐ、ホストと20〜30分話をした。
向こうが言ってくれるイタリア語は大体わかったけれど、自分が話そうとすると考え考えになってしまう。
最初は、イタリア語を言おうとするとスペイン語が出てきてしまって、簡単な単語でさえも思い出せなくて、イタリアに来たメキシコ人みたい(メキシコ人ほどスペイン語が話せるわけではないけど)な感覚だった。
でも2〜3日もすると、すっかりイタリア語の波に乗ってきた。
くり返し聞こえてくる音、スペイン語に似ている言い方、フランス語と同じもの、耳に残るものを真似しながら、自分でもだんだん話せるようになっていった。
ステイ中は、車に乗っている時間が結構あったんだけど、そういう時は相手は運転中だから身振りも見せられないし、黙ってるわけにもいかないし(しかも私のホストは車で音楽をかけない)、とにかくイタリア語で何か会話するしかない。
そんなわけで、目につくものはすぐに聞き、頭に思いついたことは、何でも口に出していたんだよね。
そうしてホームステイの2週間が終わる頃には、私はホストファミリーが住んでいる町だけではなく、その周辺の町の名前まで順番に言えるようになり(まるで子どもが沿線の駅名を覚えるみたいに)、友人一人一人の仕事やその仕事場がどの町にあるかも理解し、ホームステイ中に案内してもらったところ全てを地図でさがせるほどになった。
他にも、この北イタリアの田舎が中世の頃にはどんなだったか、町にある海に向かった大きな門がいつできて、なぜそういう名前なのかを教えてもらったし、家族の歴史、彼らの出会い、これからしたいこと、いろんな話を聞かせてもらった。
面白かったのは、1つことばが見つかると急にそれに関するものが見えはじめること。
イタリアには教会がたくさんあって、いつも「あっ、また教会だ!イタリアはホントに教会がいっぱいだね。
まるで京都のお寺みたい。」って言ってたんだけど、あるとき十字架が並んでて(たぶん墓地)、私が「キエザ(教会)じゃなくって・・・何?」って聞くと「クローチェ」という答えが返ってきた。
瞬間「ハーゲンクロイツ」ということばが浮かんできて、クロイツ=クローチェって結びついたのね。
それは訳すって感覚じゃなくて、ピタッと合わさるっていうか。
すると突然、町の中にクローチェビアンカって書いてある看板が目につきはじめたんだ。
もちろんその下には白十字のマーク。
毎日通っていた道なのにそれまでは気づかなかった。
ことばを知ったとたんに私の世界に存在しはじめた。
他にも、ある日山の上の教会にホストカップルと友人達で行ったとき、途中にかわいい紫色の花が咲いてて、私が見てるとホストが説明してくれたの。
その花はこの地方にしか咲かないらしくて、すぐそばにちゃんと説明のプレートも設置してあった。
珍しい花なんだと思った私はしっかり写真も撮ったんだけど、なんと帰り道、近所にいっぱい咲いてるのを見て驚き、家に帰ったら庭にもあって更にビックリ。
なんで今まで気づかなかったんだろう。
人間の認識ってホントに面白い。
こんなふうにして、最初ぼんやりとした状態で始まった私のイタリアは、日を追い、ことばを見つけるごとにクッキリと鮮やかなものになっていった。
ホームステイの後半には、
「あと1ヵ月いたら大体しゃべれるんじゃないか。3ヶ月たったら、ここでイタリア人相手に日本語学校を開いて一緒に儲けよう。」
なんて冗談も言われた。
「それもアリかも」って思えたのは、私の楽天的な思考だけじゃなくって、イタリア語がわかるとともにこの北イタリアでの暮らしという世界も一緒に見つけていけたからだと思う。
ことばで世界を見つけていく
それを実感した今回のイタリアホームステイだった。