第13回 丸ごとのイメージをとらえる

ドラスビーチェ! Cynthiaです。
前回は、自然習得の世界ではいつも目の前の人と、という話を書きました。
さて今回のテーマは、丸ごとのイメージをとらえる


第11回で「音のもつ雰囲気」について書いたよね。
音の持つ雰囲気が、丸ごとで感覚として入ってきているっていう話。
今日はそこをもう少し見ていこうと思う。


先日、ある高校の国際理解教養講座に行ったとき、Mちゃんがロシアに行ったときの体験談をしてくれたんだけど、それがすっごく面白かった。

あるときホストのママチカが娘の恋人に向かって、電話をかけてすごい剣幕で怒ったんだって。
その怒涛のようなロシア語の中で、聞き取れたのがギーマ」「アーニャ」「カルトーシュカ」「ダーチャ」の4つの単語。
ギーマは怒られてる彼氏の名前で、アーニャは娘の名前、ダーチャはこれから行く菜園のようなところ、というのはわかったんだけど、カルトーシュカがわからない。
何だろう?
きっとこのカルトーシュカのせいで彼は怒られてるんだろけど、それが何か皆目わからない。

結局ダーチャに着いて食事をするときに、ギーマが抱えてきた大鍋の中に山のように茹でたジャガイモが入っていて、それがカルトーシュカだったということが判明するんだけど、面白いのはここから。

実はMちゃんは、カルトーシュカ=ジャガイモ っていうことは知ってたんだ。
それまでにも聞いていたし、自分でも使っていた!
なのに、ママチカが電話で怒鳴っているときには、カルトーシュカがジャガイモのことだって全く思い出せなかった。

なぜだろう?

Mちゃんが言うには、それまでカルトーシュカということばが使われるときって、一緒にお料理をするワクワク感とか、おいしいとか、楽しいとか、そういう感じの中だった。
カルトーシュカっていうのは、Mちゃんにとってそういう雰囲気の中でしか出合ったことのない音だった。
それが、その日はものすごく険悪で怖い雰囲気の中で出てきて、それがあのアッタカイ雰囲気のカルトーシュカと同じとは思えなかったんだって。

なるほど〜!

そういえば、私も近所のコンビニの店員さんが、全く違う服着て、梅田の地下街かなんかを歩いてるのに出会ったときも、スグには誰かわからなかった。そういう感覚?


でもね、この話を聞いて、私はハッとしたんだ。

それまでも、ことばってイメージでとらえてるって思ってたけど、何ていうのかなぁ、「重い」とか「嬉しい」っていうような形容したり程度をあらわすことばや、動詞、つなぎのことば、みたいに感覚的なことばがそうなのかと考えてたんだ。

それに対して、例えばジャガイモとかリンゴとか机とか、そういう超具体的な日本にもある物の名前って、ストレートに置き換えられるから、私のような大人は対訳しちゃってるのかなって思ってたのね。

でもよーくよーく考えてみたら、自分の中でも名詞といえども、それぞれが微妙に違うイメージなんだよね。

例えば、「リンゴ」「メラ」「ピンゴー」「ヤブロッカ」(あえてカタカナ書きにしますが)は、訳せば同じになるかもしれないけど、私のイメージはちょっとずつ違うの。

「メラ」っていえば、イタリアのホスト家族の庭にあったリンゴの木になっていたちょっと平べったい種類のも含んでるし、「ピンゴー」っていうのはソノコちゃんがアメリカの家で作った「ピンゴーパイ」とか、台湾で食べたリンゴ入りのお菓子を思い出す。
「ヤブロッカ」は、自分は食べてないけど、ロシアに行った人が話していたちょっと小ぶりの酸っぱいリンゴのイメージ。それに対して日本語の「リンゴ」っていうのは、抽象的なものまで全部入っている感じかな。


考えてみれば、そのことば(音)に出合うときって、そのものの意味だけが抽象的に取り込まれることなんてありえないわけで、そこで過ごしている空間にある全てのイメージが、同時に入ってきてるんだよね。それがいろんなシーンで重なっていくうちに、次第に抽象化されていくのかな。

辞書とか単語集に載っているのは、抽象化された部分。
そこからスタートすると、具体的な場面でそのことばに出合っても同一人物と思えなかったり、自分が言おうとしたときも、実際の風景の中で音が引き出されてきにくいのかもしれないね。


そんなことを考えていたら、ちょっとあることを思い出した。

下の子が、やっと話し始めたころのことなんだけど、うちには私が仕事で使っていた絵カードというのがあって、面白がってそれで遊んでたのね。
どんなカードかというと、表に物の絵が描いてあって、裏にはそれがひらがなか漢字で書いてあるの。

「りんご!」「バナナ!」「みかん!」「ごほん!(本のこと)」「ポック!(コップのこと)」なんて調子よく答えてたんだけど、大根の絵に来たときに彼女が言ったのが、
「だいこんおろし!!」

ひっくり返りそうになったね。
絵は1本丸ごとの大根が描いてあるんだよ。

なのに、大根おろし?!

この子は「だいこん」より先に「だいこんおろし」ということばで、大根の全体をとらえているんだ。
(確かに、その頃我が家の食卓に大根おろしの乗る回数は多かった。苦笑)


大人は、抽象的な概念が最初にくると思ってしまいがちだけど、自然に母語としてことばを習得していくときには、実際に自分が体験した超具体的な経験が1番のベースになってるんだね。
確かにそこには、誰も否定できないウソではない体験があるんだもの。

その体験の重なりの中で、大根の抽象性も次第に見つけていく。


生きている中で、見つけていったことば。
だからこそ実際の場面で自然に出てくる「生きていることば」になるんだね〜。

そう思ってみると、リンゴ1つとってみても、私の中には様々なイメージがあった。
自分が実際に目にしたものもあるし、物語CDのお話の世界、人の話を聞いたイメージだけのものもある。

いろんな経験が私の中に丸ごと入ってきて、私の感覚をつくってきていたんだ。

これって、ものすごく贅沢なことじゃない?


大勢の人が生きてきた体験を、「ことば」でもって、丸ごと・感覚ごともらっているんだもの。
大げさに言うなら、その人の人生をもらってるってことなんだと思う。

さてさて、次回はこの延長で、「ことばで人生をもらう」というテーマに取り組んでみようと思います。
パッカ!